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34歳で女優を志願する

東山千栄子という人を知っていますか?

かつて、東山千栄子(1890-1980)という女優がいました。

もともとは舞台を中心に活躍していた女優で、映画にも数多く出演しています。

一番有名なところでは、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)の「とみ」役(東京の子ども達を訪ねるお母さんの役)が挙げられるでしょうか。 

  ↓ 下の動画の0:40ぐらいのところで登場するのが東山千栄子

www.youtube.com

東山千栄子は、女優としては初の紫綬褒章を受章したり、文化功労者に選出されるなど、 その活躍と演劇界への貢献が高く評価されているのですが、この方の女優としてのキャリアは実にユニークなものでした。

というのも、女優としての道を歩み始めたのが遅く、34歳の時だったからです。

 

34歳で女優を志願したわけ

有閑マダムの憂鬱と倦怠

女優になる前の東山の生き方は、というと、いわゆる有閑マダムとしてのそれでした。

上流の家庭(父は東京帝大出身の司法官、のち貴族院議員)に生まれ育った東山は、輸出事業を営む会社のモスクワ支店長を務める男性と18歳の時に結婚し、何不自由ない生活を送っていました。

結婚してからしばらくの間は、海外勤務の続く夫に同行していたのですが、ある時から外国生活が嫌になって、ひとり日本にとどまり、夫のいない留守宅で暮らすことにします。

暇を持てあまして、色々なお稽古事に手を出してみたりはしたけれども、しょせん「奥様芸」の域を出ないもの。

倦怠感は募る一方でした。 

 

人生を変えた関東大震災

そんな中で、東山の人生を大きく変えるきっかけになったのが、1923年に起きた関東大震災でした。

10万人以上の命が奪われる悲劇に直面して、東山は人間の命の儚さと尊さを知り、自分のそれまでの生き方を省みます。

・・・私はいったい何だったのでしょう?ただ生まれてきたから生きているというだけで、これではうじ虫の命と同じだと思いました。私のこれまでの生活は、あってもなくてもいいような、希望も理想もない、ほんとうにむだな、くだらない生活だったのです。

 子供ひとりない私は、子供たちを育て上げるという、大切な母親の義務を果たすこともできません。また、河野(夫のこと:筆者註)の家の両親ともにすでに世を去っていて、お世話をしてあげる人もありません。生活費をかせぐこともなく、ただ主人に食べさせてもらっているのです。

 自活できない、無力な女の生き方に私は疑問をいだきました。そして、なんとか勉強して、独立できるだけの教養を身につけなければならない、そこからほんとうの私がはじまるのだと考えました。

 私はそう決心して、まず、本を読みはじめました。それは、いわば手当たりしだいの、秩序のない乱読でしたがとにかくこうして私は、なにものかをつかまなければならないと真剣に決意したのでした。~「私の履歴書」より

 

そして34歳で女優の道へ

なにものかをつかまなければ」と、真剣に自分の生き方を模索し始めてから約1年が過ぎた頃、東山は演劇(新劇)と電撃的な出会いを果たします。

妹に偶然誘われて出かけた築地小劇場で、世間が年末でせわしないのにも目もくれず、役者たちが芝居に全てを打ち込んでいる姿を目の当たりにして、「これだ!」と直感。

演劇こそ自分の情熱を注ぎ込める対象だと気づいて女優になることを決意した東山は、さっそく築地小劇場創設者の一人である小山内薫に入所を志願しました。

小山内は「中年からはいって成功した人はいないのだが・・・」とつぶやきながらも、東山の熱意に押され、研究生として採用。

「まあ3年間やってみるんですね(それでダメだったら落第)」という、条件つきのスタートでした。

 

鍛錬の日々

研究生として入所するやいなや、それまでののんびりした生活が一変します。

その頃、築地小劇場は人手が足りておらず、研究生を急いで育てて舞台に送り出さなければならない状況でした。

朝は発声などの基礎レッスン、昼は次の公演に向けての稽古、夜は舞台に出演、と、ゆっくり寝ている間さえない毎日が始まります。

何しろ東山は全くの初心者でしたから、演出家の青山杉作からは手取り足取りの厳しい指導がつけられたのですが、若い人のようにすぐには吸収できません。

「芝居を教えるには白紙のほうがよい」はずなのだけれど、「東山さんは、白紙は白紙でも油紙ですね」という皮肉まで青山から言われる始末でした。

稽古場ではもちろんのこと、公演が始まってからも、毎日毎日厳しいダメ出しの連続。

褒められることは、なかったといいます。

ようやく初めて青山から褒められたのは、女優の道を歩み始めて20年たった頃のこと。

その時、思わず目に涙をにじませたという東山の心の中には、血のにじむような努力を重ねた日々の思い出が去来していたのにちがいありません。

 

決断する、ということ

「これほどきびしく言って、あなたは俳優をやめるかと思ったら、とうとうやめませんでしたねえ」

ひたすらダメ出しされ続けた東山が、なぜ挫けることなく、女優としての歩みを続けることができたのでしょうか。

私は、やめられないと思ったのです。やめるなら、自殺するほかないと思ったのです。自分で選んだ道だから、才能がないのなら死ななければならない。しかし勉強で行けるところまでは行こう、どんなときでもコツコツ勉強して、少しでも上へあがって行こう、勉強で行きつけるところまでは行こう・・・と、そのころから私は心がけて来ました。 ~「私の履歴書」より

女優になる決断をしたのが、並大抵の覚悟ではなかったことがよく分かります。

もちろん、これほどまでに強い覚悟が必要だったのには、今とは異なる時代背景も影響しているかもしれません。

当時の日本では、女優という仕事の社会的評価はきわめて低く、東山のような豊かな家庭の女性が女優になるのは、かなりの抵抗が感じられることだったはずだからです。

とはいえ、決断すること=選んだ道を全うすること・やり抜くことであるという真実は、時代がいつであれ、決断した生き方が何であれ、共通しているのではないかと思うのです。

決断した以上、後ろを振り返ることなく、何としてでもやり抜く姿勢を貫きさえすれば、自ずと道は拓かれる

自分の人生をつかみとるための秘訣を、そのように東山は教えてくれているような気がします。