41歳で初主役をつかんだ森光子(続き)

31歳から歩み直した女優の道

結核の療養を終えて、森光子は31歳にして芸能界復帰を果たす。

戦時中は主に前座の歌手として活動していたが、この頃からは女優として生きる道に方向性を定めて、関西のラジオ番組、舞台、草創期のテレビ番組に、喜劇作品を中心に出演を重ねる。

横山エンタツ花菱アチャコミヤコ蝶々南都雄二中田ダイマル・ラケットら、名だたる喜劇人の胸を借りながら、着々と実力をつけていく。

収入が安定したのは、36歳の時に朝日放送専属となった頃から。

そして、37歳で出演したテレビ番組『びっくり捕物帖』が人気を博したあたりから、喜劇女優として世間に認められた手ごたえも感じられるようになる。

 

38歳で運命の出会い

そして女優としての人生を変える最大の出会いが訪れたのが、38歳の時。

それは、劇作家・菊田一夫との出会いだった。

当時すでに東宝重役の地位にあった菊田が、仕事で大阪に訪れた時に、たまたま森の演技を観たのだ。

菊田は、東京へ帰るために急いで空港へ向かおうとしていたのだが、たまたまハイヤーがすぐに来なかったため、梅田コマ劇場で行われていた公演を、3分間だけ、客席の後方から覗いたのだという。

そしてその時、菊田一夫の目に留まったのが森光子だった。

 

41歳で初めて主役に

菊田は、東京で自分が手掛ける作品に出演してみないか、と、森にオファーする。

大物劇作家からの誘いに、森は喜んで応じるものの、ただし初めは、あくまで脇役としての出演だった。

「君の芝居はとても面白いが、やっぱりワキ(脇役)だな。越路吹雪のようにグラマーでもないし、宮城まり子のような個性もないからね。」と、出会ったばかりの菊田に言われたこともある。

いつかは主役を、と夢みていた森は、この言葉にショックを受けたけれども、菊田から与えられた役を一つ一つ懸命に演じていく。

そのうちの一つが、「がしんたれ」という作品中で演じた林芙美子役だった。

出番は決して多くない役ではあったが、客席からの評価が高く、これがきっかけとなって森の演じる林芙美子を主役とする作品「放浪記」が上演されることが決まる。

森にとっては、41歳にして初めてつかんだ主役である。

「幸せはいつも目の前でユーターンする」と、いつもため息をついていた森。

しかし今回ばかりは、幸せはユーターンしなかった。

「放浪記」は、芸術祭文部大臣賞を受賞し、森がこののち2000回以上にわたって出演する、生涯を通じての代表作となる。

「放浪記」の成功後、舞台のみならず、映画やテレビドラマ、テレビの司会など、次々と活躍の場を広げていき、日本を代表する女優としての地位を確立する。

 

森光子の自伝『人生はロングラン』を読んで

 

チャンスは、準備ができた人のもとに偶然を装って舞い込んでくる。

それが、森光子の自伝を読んで、私が強く感じることだ。

森が主役を初めてつかみとるまでには、デビューしてから実に28年の歳月がかかった。

映画女優から歌手へ、そしてラジオやテレビでの活躍を経て、舞台主演女優へ。

自由な生き方を時代が許さぬ中、自分がより輝ける場所を手探りで求め続けた。

そして、与えられた仕事を一つ一つ真剣にこなして実力をつけ、周囲からの信頼を得ていった先に、大きな飛躍の舞台が待っていた。

チャンスをつかみ取るためには勇気も大切だ。

38歳で菊田一夫に見出された時、地盤を固めつつあった大阪を去って、東京で一から始めることには、反対する声も周囲にはあったという。

だが、森は新しい挑戦に賭けて、一路、東京へ向かった。

後ろを振り返らず挑戦し続けること、目の前の仕事に一心に打ち込むこと。

こういった姿勢が人生を変える大きな波を手繰り寄せるのだと、森の自伝は教えてくれるように思う。