「成功者」たちのアラフォー時代
社会的に「成功」している人を見ると、ついつい、その人の華やかな側面ばかりに目を奪われてしまうものだ。
本当は、その人が「成功」をつかむまでに、苦労や試行錯誤を重ねる長い道のりがあったのだとしても、その過程はあまり知られていなかったりする。
「成功」した著名人の中には、30代半ば過ぎてから、ようやくその才能が日の目を見た人も多い。
遅咲きの「成功者」たちの物語に勇気づけられるのは、私だけではないだろう。
彼ら彼女らの話から、「自分もまだまだ頑張れる!」と力強く励まされるし、人生を良くするための秘訣を学ぶこともできる。
そこで、このブログでは、30代半ば以降に大きな花を咲かせた著名人を取り上げていこうと思う。
まず1回目は、女優の森光子の話。
41歳で初主役をつかんだ森光子
13歳で映画デビュー
森光子(1920-2012)は、いわずと知れた国民的女優の一人だが、その女優としての道のりは、決して順風満帆だったわけではない。
森が女優としてのデビューを果たしたのは1933年。
きっかけは母の死だ。
森の母は、もと祇園の芸妓で、木屋町二条の割烹旅館を営んでいた。
大阪の繊維会社の跡取り息子だった父とは結婚していない。
父は別の女性と家庭を持っており、森たちのもとには1ヶ月か2ヶ月に1度やって来て、ご飯を食べたらすぐ帰っていくのだった。
母が結核で亡くなると、たちまち割烹旅館の経営は傾き、森は1学期だけ通った女学校を中退、一転して女優の道を志す。
それが13歳の時だ。
本当のところはハイカラな少女歌劇の舞台に憧れていたのだが、伯父の薦めでいとこの映画俳優・嵐寛寿郎を頼って映画界入りし、時代劇映画に端役として出演する。
20代前半は歌手として巡業・戦地慰問の日々
森が20代前半だった頃は、日本が戦争に突き進んでいった時代だ。
戦争の影響で映画が自由に作れなくなると、森は歌手に転身する。
21歳の時に、レコードデビューの話が舞い込んできたのだが、歌の内容が感傷的すぎるとの理由で検閲にひっかかり、中止になってしまう。
その後はチャンスを求めて上京し、スター歌手の前座をつとめる日々。
浅草で歌い、日本各地を巡業して歌い、そして22歳から24歳の頃には、中国、シンガポール、ボルネオ、セレペス、チモール、バリ、ペナンへの戦地慰問団に参加する。
チモールでは、出撃する特攻隊の兵士を見送った。
暑さに弱い森にとっては、南方の戦地慰問は過酷であり、肺浸潤に冒されて帰国する。
戦争が終わった20代後半、再出発を試みるものの・・・
戦後、焦土と化した東京では仕事も生活も見通しが立たないので、京都へ帰郷し、伯父のもとに身を寄せる。
まずは関西で仕事の地盤を固めようと、大阪の劇場を駆け回って、主に歌手として活動をする。
ただ、この頃には歌手としての自分の才能にそろそろ限界を感じ始めていたようだ。
29歳の時には、無理がたたってついに肺結核になり、療養生活を余儀なくされる。
もはや仕事復帰は絶望的だと医師は見ていた。
2年余りの療養を終えて健康を取り戻した時には、森はすでに31歳。
仕事に復帰を試みるものの、芸能の世界での数年のブランクは大きく、知人からかけられた言葉は「あっ、森みっちゃん? 生きてたの」。
しかし、森の女優としての道はここから始まる。(つづく)